(_ _).。o○(日記?)

Twitter(slsweep0775)ではとても書きづらいと思ったことを書いて、さらにそこから流れる思考に任せて自由に書くブログです

「うちの飼ってるヘミングウェイがさ」
「なんだヘミングウェイって。ライオンの夢でも見るのか」
「そうかもな、それかそのうち鼻歌でも歌うんじゃないか?なにせ飼ってるのはキツツキ(hummingbird)なんだから」

 

深夜のテンションの思いつきで呟こうとしてやめたジョークもどきの会話をこっちに貼ります。

 

ライオンの夢を見るのは鯨漁に失敗した老人です。『老人と海』ですね、私は未読です。ウィキペディアであらすじを見ました。

「ハミングとハミングバードヘミングウェイって似てない????」みたいな謎の思いつきにより生み出されたこの会話ですが、あんまり下手にこういうの書くものでもないですね。

 

ウィキペディアであらすじをネタバレまで全部読むことがよくあります、進撃の巨人とか、あいつが巨人になってあいつを喰い殺すまでネタバレがバッチリ含まれておりました。閲覧の際はご注意を。

 

今さっきの出来事ですが、「くいころす」と打ったところ一番に出てきた変換候補が「喰ひ殺す」でした。なぜ「ひ」なのか。なぜ歴史的仮名遣いなのか。アマゾンの奥地にでも行けば解明されますかね、iPhoneさん。

あと、今までは「あいふぉん」と打てばiPhoneと出てきたのに、ここ最近になって「あいふぉーん」と打たないと変換候補が出てこなくなりました。Appleからの圧力を感じます。「あいふぉんじゃない、あいふぉーんだ。今後お前のiPhoneを水没させたくなければ、絶対に間違えるな」とかそんな圧力を感じます。

深夜になると何かに取り憑かれたように爪を切る。夜に爪を切ると親の死に目に会えなくなると言われたりする。だから高校に入るあたりまでは陽のあるうちに切るようにしていた。

だけどその由来を調べてみると急に馬鹿馬鹿しくなって、今ではもう昼だろうと夜だろうと急に思い立ったように切る。寝る前だとか外から帰ってきた時だとか。風呂上がりだと爪も柔らかく、硬い足の爪も容易に切れる。なのに何故か思い立たないと切らないのでみすみすそのチャンスを逃す。

そうやってみすみす寝るチャンスを逃しました。

備忘録として

夏目漱石は「月が綺麗ですね」と言い、二葉亭四迷は「死んでもいい」と言って愛を表現した。そんなにも美しい恋愛的表現があるのかと思った。しかしこれを現在において相手に使うとなると、相手の方もそれほどの素養を備えていることを前提とする必要がある。文学について何も知らない人間に月が綺麗だと伝えても、文字通りにしか受け取らないし、ましてや死んでもいいなんて言った時には、余計な世話を焼かれるだろう。
人の言葉には何かの魔力があって、絶えず人はその魔力を行使している。それに対して免疫を持っている人間がいるかと思えば、全く耐性を持たない人間がその魔力にやられてしまう場合もある。言葉というものはつくづく不思議なもので、人はその中に込められた力を使ってまた他の人間を動かしている。なのに使っている人間自身が、この込められた力に関して無頓着であったりする。無頓着というのは時に恐ろしいもので、前述した「耐性の無さ」をしばしば露呈させる。攻撃性の高い人間はその隙を突くのがとても上手で、すかさず言葉を刺してくる。出来の悪い鎧と同じだ。装備していても中途半端に鎧と鎧の間に隙間が空く。そこを槍や矢や剣や刀で突かれたら終わりだ。ほぼ死亡するだろう。言葉は武器たり得る存在だ。厄介なのは形を持たないことだ。文字に起こせば形にはなるけど、音に表される言葉ほど力は持っていない。口頭から発される声の言葉こそが最も強い力を持つ。形を持たないので外傷は付けられない。だが、同じ傷でも、外に負う傷よりも中に負う傷の方が深いのはもう誰もが知っていることだ。なぜなら、誰もが一度はそのことを経験しているからだ。この人生の中で、言葉によってつけられた傷が存在しない人間は誰一人としていないし、それがすでに完治しているなんてことはあり得ない。この傷は永遠に残る。誰が癒そうとも、それは治ったことを勝手に錯覚しているだけで、実際は傷なんて消えていない。ただ痛みを感じなくなったに過ぎないだけだ。
言葉がれっきとした武器であることに関しては、誰もが経験から学ぶ愚者である。歴史から学ぶ賢者になることは誰にもできない。誰もが一度は傷ついて学ぶ痛みであり、その経験が今後の人格形成に大きく左右する。言葉によって負った痛みは人それぞれだし、痛みを負わせる側にも様々な種類の人間がいる。ろくに痛みを感じなかったのならば、それは少し注意した方がよくて、少し時間が経てば、その痛みに対して無自覚になる。だから自分が負った痛み以上のものを人に与える場合がある。それは気をつけたほうがいい。
人が言葉を行使して感情を伝えるとき、やっぱり思った通りには伝わらなくて、伝えようとした事によく似た事を受け取って、それを理解する。この誤差が大きいほど、軋轢は発生しやすいわけだ。
愛を伝えようとしても、そう簡単には伝わらない。
月が綺麗だと言っても、愛が伝わるとは限らない。
死んでもいいと言えば、精神的な病気を疑われる。
今の世の中はそういうものだ。誰もが言葉の深層心理を理解しきることができなくなっている。言葉に含まれた僅かな意味を受け取れなくなっている。言葉を受け取るアンテナは、もうかなり簡略化されすぎている。直接的表現でなければ愛は伝わらない。伝わるとしても、ごく僅か。そんな現実を漱石や四迷が目にしたならば、彼らはどんな反応をするだろう。それはそれで楽しみだ。

備忘録として

俗に人間の魂は二十一グラムだと言われている。アメリカの医師ダンカン・マクドゥーガルは、死ぬ際の体重の変化を計測し、その数字を叩き出した。まあ定かではないし、信憑性なんて求めてはいけないほどの都市伝説だし、むしろ俗説の類だ。
だけど、大半の人間はその二十一グラムが減る瞬間に立ち会っていない。そのアメリカの医師だって、計測を試みた六名のうち二名は計測に失敗しているわけで。そもそも二十一グラムが減る瞬間がわからない。そう考えてみると、「魂は二十一グラム」という情報は、一体どの場面において役に立つのだろうかとつくづく考えてしまう。宗教観における魂の重さはこの際考えないとして、この二十一グラムという暫定的かつ不安定な、科学的重量は、どこで意味を成すだろう? 二十一グラムに僅かな意味を見出すとして、それは一体どの場面? 私にはそれがわからない。そういうわけで、科学的な魂の重さは、宗教において意味を成さないのだ。二十一グラムという数字は、科学者や無神論者、無宗教を掲げる人間にのみ適用されるものなのだろう。あくまでも俗説として。
亡骸から抜けたその魂はどこへ行くのか、ということについて、科学は完全に思考停止している。そこでやってきたのが宗教だ。
リインカーネーションと輪廻転生は同じ意味の言葉だ。すべての魂は循環する。するとこの二十一グラムの魂は、死ぬ間際に体から抜けだして、また新たに生まれようとしている体の中に入り込むことになる。そうだとしても、現在地球上で増え続けている人間の魂についてはどう説明するのだろう。胎児に宿る魂が人間の亡骸から出てきたものであるならば、人口が増えることはあり得ないはずなのだ。そこにこそ、輪廻転生の穴があるわけだと思う。この穴を埋めるのであれば、前世を同じくする人間がこの世にいないといけないはずで、しかしそうすると魂は二十一グラムではなくなってしまう。プラナリアみたいに、半分にしてもその後完全に回復することが可能なら、複製こそ可能だが、そんなことを喜ぶ人間は果たしているのかどうかも甚だ疑問である。
結局は前世の存在はおろか、魂という存在そのものが疑われているのが現実であって、これは「人間に心は存在するか」という問いに対し、「感情を司る分野がの脳の中に存在する」という答えが返ってくるようなものだ。心の存在、前世の存在、魂の存在。これら全ての存在は、現状を言えば唯一宗教だけが支えている。
宗教ほど強固な観念もない。
宗教ほど強固な概念もない。
あるはずのないものが、現在でも実際にあると信じられているのは、その考え方が宗教に基づいているからで、宗教そのものが世界から消滅しない限り、この考え方は揺るがない。そもそも宗教自体が消滅し得ないものであるので、この考え方も永遠に支持され続けるのだろう。

備忘録として

文章が書きたい。心を込めた文章と見せかけてその実主人公の心情が滅茶苦茶に詰め込まれた文章。完璧じゃなくていい。完璧な文章は綺麗だ。綺麗な文章というのは、それが「綺麗な文章」だと、読んだ人間が思った時点で「綺麗事に埋め尽くされた」或いは「綺麗な言葉しか使われていない」文章であるので、それは人を騙す時に用いたほうが、効果は高い。
「人を騙す」とだけ聞けば、それはとても悪い意味に聞こえるのだろうけれど、人は必ず一度は「どうしても人を騙さなければならない」状況というものに直面する。誰だって。一度は。そしてそれは大抵一度では終わらない。嘘に嘘を塗り固める状況に、十中八九は転がり込む。そうして人は二度嘘をつく。最低が二度。多ければ何度も。上限は無い。人を騙さなければ人は人でいられなくなる。これはおそらく真理だと思う。少なくとも私自身はそう思ってる。
人を騙す文章ってのは、しかしそうそう簡単に書けるものではない。いくら綺麗な言葉で文面を埋め尽くそうとしても、どこかで必ずボロが出る。鋭い人間はそこを徹底的に叩く。そして嘘が露呈する。読んだ誰もが気づくような稚拙なものから、人の心情を文章から読み取るプロの人間ですら見抜けないようなものまで多種多様。後者のような高度な文章を書く人間は、やっぱりそういう文章を書くまでに何度も嘘を露呈させている。勿論、自分の意図に反して。
プロは書くことをやめない。「書くことをやめない」ってのは、素人目線じゃ簡単に思えるだろうが、それは実際に文章を書き続けたことがないからだ。実際にやってみるといい。最初は五分と続かないだろうし、本当に続かない人間は一文を書いてすぐに放り出す。文章を書きたい人間てのは、まずそういう気分にすらならない。無意識に淡々と長々と文章を書き続けるもので、やっぱり書いてる最中は我を忘れ時間を忘れる。己が構築した世界を描写することに躍起になり、自らの存在を忘れさえする。私はそういう人間になろうとしてきた。今まで。そしてこれからもその模索は続くだろう。やっぱり私は文字を紡いで文章を繋げ、物語を編み出していくのが好きだ。それがやめられないのだ。