(_ _).。o○(日記?)

Twitter(slsweep0775)ではとても書きづらいと思ったことを書いて、さらにそこから流れる思考に任せて自由に書くブログです

 巨大樹の最下層にある居住区は巨大樹を素材に作られた木製の建物で、あちこちが軋む。だけどそこそこ頑丈で、なかなか壊れることがない。僕たちはそこに一つのコミュニティを築いていて、そこで暮らしていたわけだけど、ある日僕は変な会話を耳にする。その日のラジオは電波の受信具合がすこぶる酷くて、ノイズと砂嵐がメインの放送だったけれど、その中で会話のようなものを聞いた。彼らは巨大樹の根本にいる。僕は怖くなってラジオの電源を切った。

 巨大樹の根本にしがみついて木登りをする。その頂上にたどり着いた後にモニターを見ると、誰かがモニターを覗いていた。感知した途端に消え去ったが、その相手は死んだはずのクラスメイトだった。
 俺は週報を書かなければならなくて、その提出期限が今日の正午までで、だがそれを書いている途中にそんな事が起きてしまった。既に内部に潜入しているエージェントと合流して、週報の続きを書きつつも、本部の人間も交えて3人で会議を行った。だがそのエージェントは……。

 上記は見た夢です。恐らく…

 去年の8月3日にこれを書いて下書きとして保存していたままだったらしい

 

 読み返すと支離滅裂ですが、何が見えていたのかはわからないままです

 

10月頃にこれを書いて下書きで保存して、ずっとそれっきりでした。供養という意味合いで、とりあえず書いてるという感じです

作家になったら~みたいな妄想をよくします。作家にならなくてもある程度作品書いたらこういう設定集みたいなのは書いていきたいですね

 

削除要請が来るかもしれないと思いつつ、まだ来てないです

 どうやらあと5日ほどでこのブログを始めてから1年になるっぽいです

 一年前ですか、なんか実家にいてリビングでスマホ弄って、はてなブログに登録して早速記事を書いたみたいな記憶しかないですね

 

 ちょうどなんとなく人生が楽しくなってきた辺りで、それが9か10月くらいまで続いたような気がします。それ以降はどうだったっけな…大学も全然なくなっていったので小倉に行く用事もなくただ家にいてゴロゴロしてたみたいな記憶しか。映画を見に行くにもその頃には定期を買っていなかったので交通費もかかってくるので足が鈍ってきている時期でした

 

 アウトドア用の折りたたみ椅子を買ったのでベランダに置いています。最近の夕方は風も吹いてて気温がちょうどよくて、仕事から帰ってきたらベランダに出て椅子に座って、日も長くなってるからまだ明るいのもあって本を読んだりなどしています。そう、本です、読書です。通学が電車だったのですが通勤自体が自転車なので本を読まなくなってしまったんです。実家に帰る時は電車なのでその中で本を読むか、あとは映画始まるまでの長い待ち時間の間、サンマルクカフェで本を読むかしているくらいです。あとは寝る前にベッドで本を読むくらいです。読む量は確実に減りましたね…本を読む場所、空間自体は増えてるんですが時間が減りました

 

[羊](@slsweep0775) - カクヨム

 

 まあその、書いてはいます。なんか思いついた話をチラホラと。あとはメフィスト賞も諦めてないのでそっちに送る分もまぁ書いてはいます。書いてはいる。書いては。

 

 あとは、入社して早々転職したいみたいなことを考えてたりしますがだいぶ先になりそうです

 

 

ぶっちゃけて言うと、私がミステリに限らず小説を書く時って、倫理的なことはとりあえず考えてないんですよね、ジェンダーにしても然り。とりあえず書いて、それから考える感じです。ん、いやそれは考えてることになるのか……?

ただ、この「考えない」って言葉選びがまずいみたいで、基本的に良いイメージはないみたいです。ツイートにも書いたように、「考えないのは思考停止であって無頓着なだけ」と、そう受け取られる。みたいです

ミステリにおける犯行の動機として性犯罪が安易に使われすぎているみたいなツイートを見て、まぁそうなのかなとは思った。そうなんだろうな、みたいな。よほど多くのミステリを読んできたんだろうみたいなそういう意地悪な思惑抜きにして、多分今まで読んできたミステリの中に、運悪くそういう要素がありすぎたんだろう、みたいな。これもなんか誤解を招きそうな書き方ではありますが

私が読んできたミステリの中にもそういう要素はあったので、わかるっちゃわかるというか

……というより私はそんなにミステリというほどのミステリを読んでないのでそもそもこの件に関してはまともなコメントができないんです

だから書き手ではなく受け手側からのツイートでした。下手に慣れないことはするもんじゃありません。幸いにも反応は来なかったけど……

「自分自身は(今は)怖くないが、見る人が見れば怖いんだろうな」みたいな想像が働いてしまうことが時々あって。

「風景画が怖い人ってどれくらいいるのかな」みたいな疑問が浮かびました。風景画に恐怖心を抱く風景画恐怖症の方にはコメントをお願いしたいくらいです

「(今は)」と付けたのは、この先なんらかの出来事があってトラウマ級に怖くなる余地が十分にあるのと、今となっては怖くないが、過去に怖いと思っていた時期があったから、という二つの理由があります

 

で、風景画が怖いという心理ですが、これは僕の中では後者に当たるわけです。風景画が飾られていた祖父母の家の暗い廊下を通るのが怖かった、通る時も絵の方に視線を寄せなかったみたいな時期があります。なんなら廊下が明るくてもダメでした

その時の絵は「夕焼けを背景に、辺り一面にコスモスが咲いているもの」でした。サイズはそこまで大きくなかった。大きかったらまだトラウマを引き摺っていた可能性はあるかもしれない

何が怖かったかと言うと「人がいなかった」ことなんですよね、その絵の中に人が一切描かれていなかったんです。風景画なんて大体そんなもんです、人が描かれていてもせいぜい主役ではないので絵の中で大々的に描かれているわけでもない。なのにその時は人が描かれていなかったことに不気味さを感じて怖くなってた。こんな冷静な分析ができるのも、年取って色々考えることができるようになったからでしょう、でも根本の不気味さを感じたことに関してはまだよくわかってない

「絵の中に人がいない」ことを不気味だと思う心理がわかりません。でも確かに不気味だったし、あの頃は確かに怖かった

SMAPの「世界に一つだけの花」のジャケ写も怖かった思い出があります。ジャケ写ですが、地面一面に花が咲いた街の様子を絵で描いたものでした。

そこにはやっぱり人がいなかった。祖父母の家の絵よりももっと不気味に感じたのかもしれません、本来人がいるはずの都会の街並み、人がいるはずの景色、そこに人がいなくて、代わりに花が咲いてるだけ。本当に不気味だった。その記憶だけがあるんです。今そのジャケ写をネットで検索して見てみても、不気味には思わなかった。代わりに不気味に感じた記憶だけが返ってきて、どのあたりが怖かったのかもなんとなく理解できた

子どもってのは妙に想像力豊かなところがあって、常識が十分に備わっていない分、突飛な考え方もしやすかったりする。どうやらその頃の私は「世界に一つだけの花」のそのジャケ写を見て「人類滅亡後に花が一面に咲いた世界の景色」と考えたっぽい。人類滅亡って、子どもにとっては大人以上に恐怖だったり

で、祖父母の家のコスモスの風景画に対しても同様に「人がいない」ことに違和感というか不気味さを感じて恐怖を抱いていたわけですが、この「人がいない」に敢えてもう一つ付け加えるとしたら、「絵を見てる自分以外、その絵の中に人がいない」ことなんだと思いました。絵の鑑賞者が絵の中に取り込まれ、その上でその風景画の中に人間が自分一人しかいない状況。絵がリアルなほどその度合いは強く、絵の中に放り込まれた気分になる。そんな感じで。

もしかしたら、人工物が無い方が度合いは強くなるかもしれません。朽ちてようがなかろうが、とりあえずあるのは自然のみ。そしてできれば植物以外の生物を排除した状態。

大きな池があるとまた不気味さは増すかもしれませんが、その場合だと巨大なものが怖いというメガロフォビアの分類になるかも? 雄大な自然に対する恐怖も、メガロフォビアの派生になるかもしれないのだろうか

ただ言えるのは、多分写真じゃそうはならないかもしれないということ。あくまでも恐怖を感じるのは絵。CGはギリギリ入るか…?ラッセンみたいに背景が宇宙みたいな感じだったらどうなんでしょう、大きな惑星が怖かったらメガロフォビアになるかもしれない

それともただ単に風景から人が排除された状態が怖いだけなのだろうか……?