(_ _).。o○(日記?)

Twitter(slsweep0775)ではとても書きづらいと思ったことを書いて、さらにそこから流れる思考に任せて自由に書くブログです

備忘録として

俗に人間の魂は二十一グラムだと言われている。アメリカの医師ダンカン・マクドゥーガルは、死ぬ際の体重の変化を計測し、その数字を叩き出した。まあ定かではないし、信憑性なんて求めてはいけないほどの都市伝説だし、むしろ俗説の類だ。
だけど、大半の人間はその二十一グラムが減る瞬間に立ち会っていない。そのアメリカの医師だって、計測を試みた六名のうち二名は計測に失敗しているわけで。そもそも二十一グラムが減る瞬間がわからない。そう考えてみると、「魂は二十一グラム」という情報は、一体どの場面において役に立つのだろうかとつくづく考えてしまう。宗教観における魂の重さはこの際考えないとして、この二十一グラムという暫定的かつ不安定な、科学的重量は、どこで意味を成すだろう? 二十一グラムに僅かな意味を見出すとして、それは一体どの場面? 私にはそれがわからない。そういうわけで、科学的な魂の重さは、宗教において意味を成さないのだ。二十一グラムという数字は、科学者や無神論者、無宗教を掲げる人間にのみ適用されるものなのだろう。あくまでも俗説として。
亡骸から抜けたその魂はどこへ行くのか、ということについて、科学は完全に思考停止している。そこでやってきたのが宗教だ。
リインカーネーションと輪廻転生は同じ意味の言葉だ。すべての魂は循環する。するとこの二十一グラムの魂は、死ぬ間際に体から抜けだして、また新たに生まれようとしている体の中に入り込むことになる。そうだとしても、現在地球上で増え続けている人間の魂についてはどう説明するのだろう。胎児に宿る魂が人間の亡骸から出てきたものであるならば、人口が増えることはあり得ないはずなのだ。そこにこそ、輪廻転生の穴があるわけだと思う。この穴を埋めるのであれば、前世を同じくする人間がこの世にいないといけないはずで、しかしそうすると魂は二十一グラムではなくなってしまう。プラナリアみたいに、半分にしてもその後完全に回復することが可能なら、複製こそ可能だが、そんなことを喜ぶ人間は果たしているのかどうかも甚だ疑問である。
結局は前世の存在はおろか、魂という存在そのものが疑われているのが現実であって、これは「人間に心は存在するか」という問いに対し、「感情を司る分野がの脳の中に存在する」という答えが返ってくるようなものだ。心の存在、前世の存在、魂の存在。これら全ての存在は、現状を言えば唯一宗教だけが支えている。
宗教ほど強固な観念もない。
宗教ほど強固な概念もない。
あるはずのないものが、現在でも実際にあると信じられているのは、その考え方が宗教に基づいているからで、宗教そのものが世界から消滅しない限り、この考え方は揺るがない。そもそも宗教自体が消滅し得ないものであるので、この考え方も永遠に支持され続けるのだろう。