(_ _).。o○(日記?)

Twitter(slsweep0775)ではとても書きづらいと思ったことを書いて、さらにそこから流れる思考に任せて自由に書くブログです

備忘録として

夏目漱石は「月が綺麗ですね」と言い、二葉亭四迷は「死んでもいい」と言って愛を表現した。そんなにも美しい恋愛的表現があるのかと思った。しかしこれを現在において相手に使うとなると、相手の方もそれほどの素養を備えていることを前提とする必要がある。文学について何も知らない人間に月が綺麗だと伝えても、文字通りにしか受け取らないし、ましてや死んでもいいなんて言った時には、余計な世話を焼かれるだろう。
人の言葉には何かの魔力があって、絶えず人はその魔力を行使している。それに対して免疫を持っている人間がいるかと思えば、全く耐性を持たない人間がその魔力にやられてしまう場合もある。言葉というものはつくづく不思議なもので、人はその中に込められた力を使ってまた他の人間を動かしている。なのに使っている人間自身が、この込められた力に関して無頓着であったりする。無頓着というのは時に恐ろしいもので、前述した「耐性の無さ」をしばしば露呈させる。攻撃性の高い人間はその隙を突くのがとても上手で、すかさず言葉を刺してくる。出来の悪い鎧と同じだ。装備していても中途半端に鎧と鎧の間に隙間が空く。そこを槍や矢や剣や刀で突かれたら終わりだ。ほぼ死亡するだろう。言葉は武器たり得る存在だ。厄介なのは形を持たないことだ。文字に起こせば形にはなるけど、音に表される言葉ほど力は持っていない。口頭から発される声の言葉こそが最も強い力を持つ。形を持たないので外傷は付けられない。だが、同じ傷でも、外に負う傷よりも中に負う傷の方が深いのはもう誰もが知っていることだ。なぜなら、誰もが一度はそのことを経験しているからだ。この人生の中で、言葉によってつけられた傷が存在しない人間は誰一人としていないし、それがすでに完治しているなんてことはあり得ない。この傷は永遠に残る。誰が癒そうとも、それは治ったことを勝手に錯覚しているだけで、実際は傷なんて消えていない。ただ痛みを感じなくなったに過ぎないだけだ。
言葉がれっきとした武器であることに関しては、誰もが経験から学ぶ愚者である。歴史から学ぶ賢者になることは誰にもできない。誰もが一度は傷ついて学ぶ痛みであり、その経験が今後の人格形成に大きく左右する。言葉によって負った痛みは人それぞれだし、痛みを負わせる側にも様々な種類の人間がいる。ろくに痛みを感じなかったのならば、それは少し注意した方がよくて、少し時間が経てば、その痛みに対して無自覚になる。だから自分が負った痛み以上のものを人に与える場合がある。それは気をつけたほうがいい。
人が言葉を行使して感情を伝えるとき、やっぱり思った通りには伝わらなくて、伝えようとした事によく似た事を受け取って、それを理解する。この誤差が大きいほど、軋轢は発生しやすいわけだ。
愛を伝えようとしても、そう簡単には伝わらない。
月が綺麗だと言っても、愛が伝わるとは限らない。
死んでもいいと言えば、精神的な病気を疑われる。
今の世の中はそういうものだ。誰もが言葉の深層心理を理解しきることができなくなっている。言葉に含まれた僅かな意味を受け取れなくなっている。言葉を受け取るアンテナは、もうかなり簡略化されすぎている。直接的表現でなければ愛は伝わらない。伝わるとしても、ごく僅か。そんな現実を漱石や四迷が目にしたならば、彼らはどんな反応をするだろう。それはそれで楽しみだ。