(_ _).。o○(日記?)

Twitter(slsweep0775)ではとても書きづらいと思ったことを書いて、さらにそこから流れる思考に任せて自由に書くブログです

「自分自身は(今は)怖くないが、見る人が見れば怖いんだろうな」みたいな想像が働いてしまうことが時々あって。

「風景画が怖い人ってどれくらいいるのかな」みたいな疑問が浮かびました。風景画に恐怖心を抱く風景画恐怖症の方にはコメントをお願いしたいくらいです

「(今は)」と付けたのは、この先なんらかの出来事があってトラウマ級に怖くなる余地が十分にあるのと、今となっては怖くないが、過去に怖いと思っていた時期があったから、という二つの理由があります

 

で、風景画が怖いという心理ですが、これは僕の中では後者に当たるわけです。風景画が飾られていた祖父母の家の暗い廊下を通るのが怖かった、通る時も絵の方に視線を寄せなかったみたいな時期があります。なんなら廊下が明るくてもダメでした

その時の絵は「夕焼けを背景に、辺り一面にコスモスが咲いているもの」でした。サイズはそこまで大きくなかった。大きかったらまだトラウマを引き摺っていた可能性はあるかもしれない

何が怖かったかと言うと「人がいなかった」ことなんですよね、その絵の中に人が一切描かれていなかったんです。風景画なんて大体そんなもんです、人が描かれていてもせいぜい主役ではないので絵の中で大々的に描かれているわけでもない。なのにその時は人が描かれていなかったことに不気味さを感じて怖くなってた。こんな冷静な分析ができるのも、年取って色々考えることができるようになったからでしょう、でも根本の不気味さを感じたことに関してはまだよくわかってない

「絵の中に人がいない」ことを不気味だと思う心理がわかりません。でも確かに不気味だったし、あの頃は確かに怖かった

SMAPの「世界に一つだけの花」のジャケ写も怖かった思い出があります。ジャケ写ですが、地面一面に花が咲いた街の様子を絵で描いたものでした。

そこにはやっぱり人がいなかった。祖父母の家の絵よりももっと不気味に感じたのかもしれません、本来人がいるはずの都会の街並み、人がいるはずの景色、そこに人がいなくて、代わりに花が咲いてるだけ。本当に不気味だった。その記憶だけがあるんです。今そのジャケ写をネットで検索して見てみても、不気味には思わなかった。代わりに不気味に感じた記憶だけが返ってきて、どのあたりが怖かったのかもなんとなく理解できた

子どもってのは妙に想像力豊かなところがあって、常識が十分に備わっていない分、突飛な考え方もしやすかったりする。どうやらその頃の私は「世界に一つだけの花」のそのジャケ写を見て「人類滅亡後に花が一面に咲いた世界の景色」と考えたっぽい。人類滅亡って、子どもにとっては大人以上に恐怖だったり

で、祖父母の家のコスモスの風景画に対しても同様に「人がいない」ことに違和感というか不気味さを感じて恐怖を抱いていたわけですが、この「人がいない」に敢えてもう一つ付け加えるとしたら、「絵を見てる自分以外、その絵の中に人がいない」ことなんだと思いました。絵の鑑賞者が絵の中に取り込まれ、その上でその風景画の中に人間が自分一人しかいない状況。絵がリアルなほどその度合いは強く、絵の中に放り込まれた気分になる。そんな感じで。

もしかしたら、人工物が無い方が度合いは強くなるかもしれません。朽ちてようがなかろうが、とりあえずあるのは自然のみ。そしてできれば植物以外の生物を排除した状態。

大きな池があるとまた不気味さは増すかもしれませんが、その場合だと巨大なものが怖いというメガロフォビアの分類になるかも? 雄大な自然に対する恐怖も、メガロフォビアの派生になるかもしれないのだろうか

ただ言えるのは、多分写真じゃそうはならないかもしれないということ。あくまでも恐怖を感じるのは絵。CGはギリギリ入るか…?ラッセンみたいに背景が宇宙みたいな感じだったらどうなんでしょう、大きな惑星が怖かったらメガロフォビアになるかもしれない

それともただ単に風景から人が排除された状態が怖いだけなのだろうか……?