(_ _).。o○(日記?)

Twitter(slsweep0775)ではとても書きづらいと思ったことを書いて、さらにそこから流れる思考に任せて自由に書くブログです

引越しをしました

 

 2年住んだ上、仕事したり映画見に行ったりする分には若干遠い立地にある上、大通り沿いのマンションだったので車の走行音も収まらないくらい喧騒に囲まれて、夏は暑い、窓を開けば風は入るが音も入る。ガスコンロは二口あるけどグリルは無い、そんな感じの点にさえ目をつぶれば住み心地は基本的に文句なしの快適さで、精神がやられて体までやられたときはずっと家のあちこちで倒れながら、床の冷たさが心地よく。

 家もまぁそこそこ広く、台所の洗い場はメチャクチャ狭いので洗った食器はどこにも置けない、置いたら置いたでまな板を置けない野菜を切れない。そんくらい狭かった台所も、まぁ住めば都みたいな感じで2年

 

 1年目初期は新卒入社ということもあってうつ病は鳴りを潜めていただけらしいからどうにか働けた。仕事は17時に終わり、帰ってきたらケムリクサや仮面ライダーや映画などをアマゾンプライムの小さなスマホ画面から見ながら料理をして、時には徒歩で天神まで本を買いに行ったりした。

 夏に差し掛かるちょうど今頃の住み心地は、窓を開けて、玄関ドアを少しだけ開けておくと、風が通り道になるので空気の入れ替えとしても活用していたし、涼しい台所だった。

 結局…その後なんやかんやあって休職をし、職場が変わり住吉からももち浜になったわけだが、その頃にはうつ病も再発していたものだから治るわけがなく、体も動かずでどうにもならないまま貯金を切り崩す。

 2019年、私のニート生活も下半期中盤まで続くものだから目も当てられない。なにしてたっけ?映画見に行ってただけじゃんね。10月からまたももちで電話をとる仕事になったもんだから、まぁ最初に行った住吉よりはだいぶ楽にできたけど…不眠症がそこでやってきたので、眠れないまま仕事をする日も出てきた。睡眠不足は体調不良を引き起こす。なるべくしてなった体調不良に自己愛と鬱病が追い討ちをかけてくるので僕の体は、職場の中をフラフラ歩く死にそうな男に写ったことだろう。家という自分が帰る家という存在だけが自分を受け止めてくれるような気がして、ネット先の人間も同じように僕の生きる生命線になろうとしている。

2020、仕事そのものが終わるらしく、最後の給料でどうにか次の家を探したら、住んでるところとそう遠くない場所に部屋を見つけたので僕はそこに決めた。

 ロフトに窓がある。空は見えない。窓のせいで。 

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 本棚は文庫版がロフトにある。

 漫画は分割して階下に置いてる。

 ロフト、話で聞いていた通り暑い。扇風機でどうにかなる。秘密基地めいたロフトの中で、生活をしてみたいとさえ思う。

 ただ一つの懸念は、ロフトからの転落だけ。

 下の部屋の窓は開くに開くが、風が通らない。これがちょっと気にかかる。

 いままで7万近く家賃を払ってあの部屋に住んでいた。今の家賃はおよそ4万なので3万分の何かが引かれていると考えてみると、一番は2点式ユニットバスぐらい。リモコンがないので温度調整をできない。蛇口出すか止めるかだけの蛇口がないので60°Cのお湯と冷水を常に黄金比率になるまで調整しなければならないのだ。

 ……それ例外は特に……ないな……

 建物が木造なので、少しだけ音が聞こえる。窓を開ければ会話が聞こえ犬も吠えテレビの音も聞こえる。思っていたより静かだなと思った。

 そして思ったよりも部屋が広い。

 最寄駅もそんなに距離は変わらない、品数が増えた大きなスーパーが近くにあり、少し歩けばミニストップ。夜にコンビニに行くのが好きだが静かだとなおいい。

 ここは静寂だ。

 あの家は、時期的に引越し時期とかぶったこともあって、深夜中工事音で耳が死んだ。大通りを工事しようとなると、こういう弊害が起こる。

 

 マンションの隣にあった餃子屋テムジン、結局行かないまんまだった

 最初で最後の悔いは餃子だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 過去を少しずつスライスして、脂身を削いで見た目をよくし、そうして出されるのがエッセイめいた回帰的回顧録。それがブログ。自分のエピソードを書くために、人は自分自身を切り取り加工しなければならない。それが嫌なら最初から何かを作り出すことくらい。

 ブログで最近になって過去の出来事を書くたびにいつも思うのは、まだ語れる部分があるのではないかといった残り物の捜索をする自分の姿。まだ可食部があるんじゃないかと骨付き肉のあちこちを吟味し、自棄になって軟骨を頬張るような、そんな感じ。それを正直良く思っていなかったということ。過去を省みて何かを書くのは、書く人間の曖昧な記憶が題材の全てであり、主観100%の自分以外にとってのフィクションに近い何か。誰のためにブログを書き、誰のために日記を綴り、自分のために何もかもを残す、私がここ最近でやってきたのは前者の「主観100%の自分以外にとってのフィクションに近い何か」だ。残り物の食材と昨晩の晩飯で作られる新しい過去。僕の物語は脚色をされてこの記事に載る。

 そうまでしないと、僕は僕であることを維持していられるかどうか怪しいから。

 

 そういうわけで新しい住所からがんばります