睡眠薬を飲んで眠りかけの頭で文章を書くと、脳の変なストッパーのあれこれが外れてしまうらしく、ここ最近の文章、日記は殆ど深夜に書かれています。小説も同じく。
マストドンjpが終わってしまう。2年ほど世話になり、友達もできた。彼らを失いたくはない。
Twitterに戻るかどうかを一瞬だけ考えたんですが思った以上に人もおらず、そもそもあのアカウントはリアルアカウントだったこともあり、フォローをしていた友人はTwitterそのものから離れているらしい。TLに流れてきたツイートは会ったことのない人間のツイートだけになってしまい、リアルと趣味のないまぜになったアカウントになるんだろうと思っている。
そんな状態で、創作の更新やら映画を観たという連携ツイートをしているだけの中国語の部屋みたいな状態を続けて行っても構わないかもしれない。自分自身のツイートが、機械のツイートの山に埋もれて何を話したのか全く分からなくなるよりはいい。
Fedibirdという分散型SNSを利用し、とりあえずそちらに家を移すことにする。平たく言えばローカルタイムラインのないマストドンみたいなもので、フォローしていないアカウントのトゥートを見ることはできない。それだけが気がかりなので、当分様子を見たのち、他のインスタンスを探す。これで行こう。一時的にだが、利用させてもらう。
スマホゾンビが目の前を通り過ぎて行った。
恰幅の良い人間に体当たりしてしまい、ゾンビは死んだ。哲学的ゾンビが通報をしてる。どうしてすぐに通報しようと判断できたのかわからない。普通ならゾンビの様子を伺うなりして生きているのか本当に死んだのかどうかを確かめて、何かしら感情を表出するはずだろう。なのに何もない。
程なくして救急車は来たが、サイレンは最後まで鳴らなかった。
スマホゾンビはコーヒーが好きらしい。クリームが付いていても、ブラックであろうとも、ケーキすら付けてカフェオレを頼む。写真を撮り、ネットにケーキの標本が出現する。
多くは流行のメニューを頼むらしい。どのゾンビも同じようなファッションに身を包み、広告塔に映るモデルに近づこうとしている。本当にそうしたくてしているかはわからないが。
BOOKOFFに本を買いに行くと、欲しかった本の欲しかった巻数だけが空っぽになっていた。書店に行ってもその巻だけが無い。
理由ならわかる。紛れもなくスマホゾンビの頭の中にインターネットゾンビがいるからだ。
その巻数だけが売れたのは、話がどうとかではなく、その巻に収録されているとあるページを改変されたネタが、インターネットミームとして蔓延したかららしい。倫理観のあるスマホゾンビもいるんだなと納得をする。大多数はインターネットで読むだろうし、そのページだけを求めて彷徨っているだろう。
義務感に駆られて作品を見るような生活が続いているのであれば、オタクであることに疲れてしまった存在であるとまだそう言えるだろう。ゾンビとは違って欲求があり、意識があり、クオリアがあるから。
中身だけが腐ってしまったゾンビたちは、流行っているものを貶しつつ触れる。うまくいけばゾンビはアニメゾンビになる。フィギュアゾンビになる。特撮ゾンビになる。
ここに、最近のオタク文化についていけなくなってしまった一人のオタクを紹介しよう。
彼は行き詰まっている。
周りがハマっている最新の作品に今一つ乗れないことに疎外感を感じ、過去の作品をサブスクリプションサービスで見返す。過去の作品に触れ、過去を思い、自分にとってのオタク全盛期に想いを馳せて、憧憬に浸り未来を恐れ希望を失っていく。少しずつ。
そんなある日、彼は最近の作品やそれに端を発する最近のオタク文化に関する雑な論考を長文にしたため、或いはツイートでスレッドを作り、淡々とぶちまける。最近の作品にまつわる環境、作家の生活、その土台にある自分の体験と感情の動き、そして今後の成り行きを含めた自分なりの予測。
これらを不快感、怒り、憐憫、憂い、不安、悲しみ、そのあたりの負の感情と合わせて、しかもただ書くのではなく、修飾と比喩を絡めて、その上自分の体験を重ね合わせて書くものだから、文章量は多くなる。自分が見てきたものを書き連ね、時々脚色を入れる。脚色を入れるのは、書いている自分がつまらないと感じているからであって、その他の読者がそう感じるかもしれないと危惧しているからではない。あくまでも主役は自分であり、最大限配慮されるべきは自分自身だと考えている。
それにしても、彼は何故こんな長文を書いたのだろう?
理由は主に四つある。
1.言語化
2.セルフケア
3.自己顕示
4.自戒
「彼らに対して思うことがあるけれどどういうことなのか自分でもわからない。だけどこれは言わなければならない気がする。言いたいような気がする。言ってしまえば楽になれる気がする。むしろ言わないとおかしくなってしまいそうだ」
「自分以外に自分のことを知っている人間はいない。だから慰めてくれる人間もいない。だけど慰めてほしいしわかってほしい。自分の意見が確実にここにあるのだとわかってほしい。自分が意思を持つオタクなのだと知っててほしい、見つけてほしい。読んでほしい。そして自分は決しておかしくなってなどいないのだと言ってほしい」
彼はそう考えて書いた。「これを読む人間はぜひ、自分のこの内容も含めて全部を認めて肯定してほしい」読む人間にはそのように要求していることだろう。
だけどそれもこれも全部「自分のため」の文章である。
自分の中に渦巻く気持ちの整理をつけるために彼は書いた。そして一文一文字書くごとに自分の気持ちが明確になっていき、書きたいことが明確になるのでそれも書いてしまう。やっぱり長くなる。
自分が一体何を思っているのかわからなくて不安なのでとりあえず書いてみるとなんとなくわかってきた。だからその過程も書いてしまおう。
自分の気持ちをとりあえず並べ替えてみたら運良く文章になったのでその成果を見てほしい。
気持ちを整理したら物事や感情を受け入れる容量が増えたのでその成果を見てほしい。
デフラグみたい。
中身なんて無いのに。
ともあれ、こうして匿名ダイアリや日記などのエントリとして「お気持ち」が我々の元に送られてくる。オタクは滅多に「良いこと」に関する長文を書かないのでこの「お気持ち」は燃える。
オタクたちの流行になんとなく乗ることでオタクになっていったパターンが今は多い。人気作品から様々な繋がりでオタクになっていく。なんとなく、興味ないけど、暇だったから、見るものもないから、そんな気持ちでオタクのなりかけが誕生する。彼らが完全にオタクになるまでそう遠くはないし、そう手間もかからない。
誰かが「にわか」と叫びながら石を投げている。逃げなければ。
彼はこの流れを掴めないまま、流れに乗ることもできなかった。置いてかれてしまう。怖い。取り残されたくない。恐怖が渦巻き、未来への不安は募るばかり。だが何も行動を起こせない。でもそれは嫌だ。何もできないけど、何かを残したい。
人にはゾンビになる素質がある。何も考えずに行動することができる。敢えて疑問を持たないように意識することができる。周囲に影響を与え、仲間を増やすことができる。
彼はその存在に気づいた。
そしてゾンビになった。
過去に縋っている人間はそこら中にいる。発信しないからわからないだけ。
時代についていけなくなった敗北宣言にも似た長文の「お気持ち」はネットを駆け巡り、言語化する術を持たないオタクたちに力を与える。
「わかる」「そう思う」「気持ちはわかる」「これ」「ほんとこれ」
力を与えられたオタクが鳴き声を上げる。
「そうは思わない」「違う」「またお気持ちか」「わからない」「何言ってんの」
力を与えられたオタクが鳴き声を上げる。
「お気持ち」は引用され、改造され、威力は下がる。次第に解析され、「雑な論考」と一蹴され、やはり威力は下がる。
ちなみに彼の長文が「雑な論考」だと評価されたのは、知識だけが最新で彼自身の価値基準が古いままだったからだ。
適応度の高いオタクがゾンビになっていく。
さて、彼は何を思ったか更に文章を書く。
ひとしきり燃えた「お気持ち」の灰から燃えカスを掬って、彼はまた書く。
それは補遺のような意味合いで書かれた苦しみの暴露。
いかに苦しみながら狂っていき、その末にいかにして真実に到達したかを淡々と書く。「※追記」と称して「お気持ち」への外からの反応と、改めて自分の中で熟考したらしいものをアウトプットして感情を鎮める。「自分はこうしてこういう経緯でこういう背景があってこうなってしまったのだこんな雑なことを書くに至ったのだ書かずにはいられなかったのだ」。あくまでも自分は被害者であって、自分の「お気持ち」でいくら人が傷つこうともその立場は揺るがない。自分は悪くない。
根底にあるのは負の感情と、それとは別に発生している怒りだ。時代への。世代への、社会への。作品への。自分以外への。自分のせいでこうなったと繕いつつも、自分が悪いと前置きを書きつつも、あくまでも怒りの方向は自分以外に向いている。自分を怒らせたから。
そうした自分以外の全てへの怒りを込めて書かれた長文に貼り付けられた商品名が「お気持ち」なのである。「自分は悪くない。あくまでもお前らが、社会が悪い。自分は被害者である」。
「お気持ち」には明日への憂いが最大限に書かれている。「今にこうなる。そしてそうなる。現状がこんな惨憺たる結果になっているのだから、絶対にこの流れは止められない」と。これまで接してきたものたちに対して、持っている感情はもはや二つ。
憎しみと恐怖。
「こんなものが流行っている世の中はおかしいし楽しんでいる人たちは狂ってる」と、「どうしてこれが流行っているのか本気でわからなくて怖い」の二つ。
オタク文化の流れを憂うのも、ファンを嫌悪するのも、頼まれもしないのに脱オタ宣言をするのも、全部この二つの感情が根底にあるからだ。
負の感情の発露の仕方を間違えると人は狂う。
ゾンビも考える時代だ。脳だけが何事もなく活動している種類が今はメインになっている。だから馬鹿ではない。ノーベル賞を取るくらいだ。彼らの権利は国際的にも認められ、真っ当に生きる権利を得ている……厳密に言うと、元から権利はあったのだが。
ゾンビの行方は、誰も知らない。