(_ _).。o○(日記?)

Twitter(slsweep0775)ではとても書きづらいと思ったことを書いて、さらにそこから流れる思考に任せて自由に書くブログです

 この前RADWIMPSがとうとうサブスク解禁に踏み切ったのが嬉しくて、ずっと聴いてる

有心論

有心論

はてなはいい。Twitterマストドンと違いその場で曲をプレビューさせて視聴ができる……Twitterでもできるらしいって?そうなの?…そう…まぁいいや

 解禁とはいえ全部じゃない。味噌汁'sは未だにだし、アルバムも楽曲も。まだ聴けないものがある。

 RADのサブスクは、サブスク用にこしらえたらしいベスト盤と称したアルバム二枚。「RADWIMPSのはじまりはじまりのまとめ」

「青とメメメと君と」

 だけ。追加でシングルをいくつか先行で配信していた。そこに突然解禁されたアルバムシングル全部…とは言わないが、サブスクでまともに聴けるくらいにはなったわけだ。

 本人たちの意向によるものなのかという気持ちが常に強くあって、彼らはCDとライブで聴いてこそみたいな気持ちはまぁわかるけど……

 サブスクを拒否する…というかサブスク解禁に難色を示すアーティストたちの心境が少し気になる。私自身は楽曲を完全に享受する感じで音楽と接しているわけで。一顧客でしかない。報酬は確かに支払われるのに、そのリターンがあまりにも少ないみたいな話は、それはそれで重大な問題だ。ただそういうのを抜きにしても、サブスクを解禁しないってのは、作り手として音楽を発表したことのない私にとって、わりと難解だ。よくわからない。

 そこまで重要視していないのかもしれないし、配信だと手元に残るのはCDじゃなくデータだから現物を買ってほしいとか。確かに歌詞カードは重要だ。PDFでもらうのも悪くはない。だが紙をどう駆使して巧妙な歌詞カードになっているかってのはわかり用がない。

 歌詞カードも作品だ。

 装丁も作品。

 CDのデザインだって作品。

 配信系のサービスにおける致命的な欠点がある、CDジャケットは正面だけで、裏面を見ることができないことだ。ケースを開けてCDを取り出した時に現れるホルダー下のイラスト或いは写真。この作品を楽しめない。そしてそれらの雰囲気に飲み込まれて、歌詞カードを手に取ることができない。重要な一部だ。まずその装丁に掴まれる。歌詞カードを侮ってはいけない。歌詞を読むために手繰る頁そのものが世界観の一部であり、重要なファクターですらある。歌詞だけが作品だと人は言うが違う。曲の展開とともに流れてくる電子的な歌詞サービスは確かに便利だしかし。装丁、レイアウト、字体、写真、イラスト、CG。これらの要素が全て全力で組み込まれており、曲に合うように合理的に組み立てられており、全体の雰囲気に合った最高品質の装丁を組み上げて、歌詞は着飾り、己の言葉とする。そうして配置されて、ようやく歌詞カードは完成される。書かれた歌詞が共鳴し、様々な効果を相互に起こし、メインの曲たちの持つ力を最大限に引き出し、最高火力で音が鳴る。

 CDデザインだってそうさ。穴の空いた円にいかにしてその雰囲気を乗せていくか。そしてそのホルダー下の雰囲気とどうマッチするのか。常にデザインの萌芽はそこにあり、そこから取れるデザイン、雰囲気、それらのアイデアだけでCDはできてる。

 歌詞カードはバフであり、CDケースもバフだ。CDそのものもバフであり、その中にある小さな音と言葉のデータに全てのバフがかけられる。

 そうして再生された音楽は神のような作品となり、CDがある限り。バフは永遠に続くわけだ。

 

 

 

 

 

 

…なんの話だったっけ?

 

 サブスクの話。なぜサブスク解禁に踏み切れないアーティストがいるのか、その当人たちの、サブスクリプションサービスに対する思いを、私は知りたい。

 そう言う話だったと思う。

 

 なんでこんなことに?

 

 

「とともに流れてくるそれらの世界観が頭の中に構築されて、ようやくCDを聴くって時に」

 

 ……覚えのない文章が一番下にあった