(_ _).。o○(日記?)

Twitter(slsweep0775)ではとても書きづらいと思ったことを書いて、さらにそこから流れる思考に任せて自由に書くブログです

 銅像が引き倒される動画があちこちで流れていて、今後、実話をもとにした映画とかに使われるんだろうなと思っています。或いは「2020年はこんな時代だった」といった感じでフィクションにリアリティを与えるために使われるか、はたまた近未来SF映画とかの冒頭部分で人類の歴史の一端として一瞬だけ映像が流されるか

 深夜に差し掛かる辺りで流された、ワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んでいったニュース速報は今でも鮮明に覚えている。父親の実家のリビングで家族が棒立ちになってテレビを見つめており、まだ幼い私はその映像を見てブロックでタワーを作り、そこに飛行機のおもちゃを突っ込んだ。

 対岸の火事であるからこそ、不安にはなれど不安を感じることはできなかった。不安になったのだって、テレビを見ていた家族の様子がいつもと違っていたからで、むしろ大きな建物に飛行機が突っ込んだあの映像を見た時、ワクワクの気持ちを隠せなかったと思う。ブロックで再現するくらいだ

 2001年にそういうゴタゴタがあって、2020年に別のゴタゴタが起きているのを対岸から見て、私は当事者でないのをいいことに、当事者になり得ない立場にいるが故に、いまだにその先の未来のフィクションに想いを馳せてしまう。近いのはトムクランシーのDIVISIONシリーズ。疫病で崩壊したアメリカの街を、普段は一般人として暮らしているエージェントが集まって敵に立ち向かう

 ……そうまでは行かなくても、映画やドラマなどでの2020年の扱いは大きく変わるかも。

 例のゴタゴタから枝分かれして伸びるも剪定されてしまった「起こり得なかった」枝。それをフィクションとして再加工すれば、ネオナチ、KKKの再来、キング牧師の再来。混乱に乗じて行われる陰謀。経済制裁。国がメチャクチャならば、人もメチャクチャになる。2020年は序章に過ぎず、2021年の東京オリンピックで爆発騒ぎが起き、東京も荒廃。首都が移り日本が東西で分裂。温暖化により溶け出した氷から新たなウイルス・病原体の流出、試作段階の格闘スーツが急ピッチで製造され、少数精鋭で行われる戦争は作戦として着々と。メキシコの壁が壊される日、不法入国者が保菌状態で大量死。パンデミックバイオハザード、滅亡物語があちこちで作られるかもとワクワクしている。刑事ドラマやミステリ作品では人種の問題をより色濃く扱わざるを得なくなるだろうし。あのゴタゴタの巨大樹から枝分かれして派生したフィクションがたくさんある。そのまま枯らすか活かして物語にするか。そういう選択を迫られてると言い切りたい。

 なんにせよ、ゴタゴタがフィクションや創作に影響を与えるのはまずもって避けられないだろう

 ゴタゴタを経て作られたフィクションには影響と、さらに文脈が混ざる。キャスティングにも意味が込められ、キャストやスタッフ、ロケ地などにも。物語の外側で物語が始まり、もはや作品は本編だけではないのだと知る。キャストそれぞれの要素……つまり人種、ジェンダー、政治的スタンス。これらを本編を引き立たせるためのスパイスとして散りばめ、プロデューサーによってあれこれとハッシュタグをつけられ、ようやく客前に出された作品。純粋に映画を楽しもうとしてもスパイスやタグによって解釈が枝分かれし、気がつけば一本道の楽しみ方を誰もしていない。もう本編のみならずキャスティングまでもが一つの本編と化しているから一本道の解釈が用意されなくなったと言える

 作品の背景に込められた意味は、これまで半ば都市伝説的に語られてきたけれど、もうなんだかそういう時代でもなくなってきたみたいだ。いいところはいいと、悪いところは悪いと。これまでよりもグレーの範囲は狭くなった

 これからは偉人たちを悪役に据えたフィクションが流行りそう。対岸の彼らはもうすでにやっているかも。銅像に落書きをしたり壊したり倒したりを既にやっているわけだから、ノートに「リンカーンの倒し方」とか描いて悦に浸る子もいるんじゃなかろうか。自分だったらこうやって壊すのにと、彼らの妄想は偉人に反旗を翻すことでたくさんだ。

 彼らはあくまでも「間違い」が公衆の面前に堂々と残っていることに憤っているので、憎悪は銅像では消えず、象られた偉人にも向く。リンカーンの桜の木の逸話も、作られた話として簡単に修正を信じてくれることになるでしょう。デマを塗りつぶせるのはデマにしかできない

 偉人について書かれた伝記のデメリットは、扱った偉人の悪行が目立ちにくいところなんですよね、こういう偉業を達成したが、それ自体が実は数々の悪行のもとに成り立っていただとか、善行を成した裏でそれよりももっと多く、もっと酷い悪行が行われていただとか。そういうものが伝記には書かれることはあれどそれほど悪くは書かれない上、伝記という物語の構成上、いい終わり方を迫られるのでそれほど重要視されない事が多い気がする。「こういうことをやってきたが、結果的にはいいことをした」といった感じで、悪行やそれによる犠牲や被害についての言及が、いい人間であることを伝えるために省略されることもある。そういう形で語られた彼ら偉人のいい部分しか伝わらず、悪い部分が意図的に隠されるから伝わらず、偉人を表面的にだけ知っている人々は、彼ら偉人を時に神聖視する。

 そういう神聖視すらしていた人々にしてみれば、例のゴタゴタは冒涜に等しい。ここでまたゴタゴタが起きている。「悪いもの」や「間違ったもの」が、純粋無垢なる公共の場所に堂々と鎮座しているのが彼らにとって最も許せない状況だから。「真実」を知って、偉人たちの、伝記の「欺瞞」に気付いた彼らにとって、なんでもなかったようなものが不純物に見えてしまうから。

 世界が善行で埋め尽くされ、真実のみを大事とする人間だけが生きるようになる時代を目指している彼らの修正作業は終わらない。

 彼らの戦いはこれからだ。

ーー応援ありがとうございました!

ーー次回作にご期待ください!

 

 なんて。

 事実に基づいた映画作品を見る時、ほとんどの確率でパンフレットを買ってしまう。基になった出来事についてざっくりとだが簡潔に書かれていたりするからだ。「これはフィクションだけに収まらない。現在進行形で起きていることだ」といった感じの解説とともに、なぜこんなことが起きたのかだとか、そんなコラムや解説を読んで、映画の小ネタを拾うわけです

 文字が多ければ得。キャプションが多くても得。

 どちらにせよパンフレットはいいものです