僕はレゴが好きだ。
ずっとやっている。
特に、ミニフィグと呼ばれるレゴの中における人形パーツを組み替えて、自分だけのミニフィグを作り上げて、そこに武器や設定を持たせて遊ぶのが好きだった。
特に気に入ったミニフィグには、強さランキングで1位を譲らない最強の存在という設定を与えて、主人公に据えて、他のいろんなミニフィグと遊んでいたのだ。
もうキャラとして完成してしまった以上、そのパーツはそのキャラ専用となってしまい、他のミニフィグには使えないというくらいの強い制約も生まれた。
今思えば、僕はそういうオリジナルキャラクターに対して、一種のアイデンティティを見出していたかもしれない。僕が作った僕だけのキャラクターという枠組みを超えて、完全に作られた存在ではない、自分で考えて行動するようなキャラなんじゃないかと思うほど、思い入れも強かったのかもしれない。
しかし、対する敵はというと、僕はオリジナルでミニフィグを作ることをしなかった覚えがある。
版権もの、例えばスターウォーズやアメコミ系のレゴに出てくる悪役キャラクター。
僕の中では悪役を彼らに据えて、自分たちのミニフィグが原作そのままの悪役を、同時に現れる主人公側のアメコミキャラやジェダイやトルーパー達と一緒に倒すという形式でやってきた感じ。
子供の頃は、大抵物語の流れに納得できずに地団駄を踏むことが多い。ヒーローが苦戦していればテレビ越しに応援するし、ヒーローショーでも子供達は頑張れとコールする。ドラえもんの映画でも、ピンチに陥るシーンでは「他のひみつ道具を使えばいいのに」ともどかしくなって妄想の中で「自分ならこうする」と、自分なりの対処の仕方を考えながら眠りにつくのだ。起きれば忘れてまた楽しむ。
大々的にとまでは行かなくとも、自分で考えたオリジナルキャラクターが、複数の原作の悪役と闘い、半ばチート級の強さで圧倒するという流れは、遊んでいた当時の僕からすれば、それはもうカタルシスだった。
だって、原作では何度も主人公は苦戦を強いられていたし、罠に嵌められ仲間を失ったりすらしたから。
幼い僕は、これをすごく悔しいと思った。僕が物語の中に入って「次はこうなるぞ」だとか「罠だから避けよう」だとか、「これを使えばいいじゃん」だの、あれこれ介入して主人公を助けようと考えたりすらした。
寝る前の妄想で、僕が物語の中のイレギュラーな存在として、結末まで全て知っている状態で、ドラえもんを窮地から救い出す様子を何度も何度も考えた。
でも所詮は子供の妄想に過ぎないという重い壁が立ち塞がる。フィクションには、それを作っている人間がいる。その人間達の采配ひとつで、キャラの死は決まる。僕は途方に暮れたりもした。
でも、窮地に陥る彼らを救う方法を、子供ながらに思いついたのだ。
それがレゴだった。
オリジナルのミニフィグ、オリジナルの設定、チート級の強さ、かっこいい武器、全部乗せて最強のミニフィグを作った。それも一人二人三人と増えていった。設定も細かくなっていった。レゴのオリジナルシリーズのキャラクターを仲間にしたり、手当たり次第に仲間を作って強い設定にしていった。服装は違えども仲間であることに変わりはない。僕以外は誰にもわからない、オリジナルのエクスペンダブルズを作り上げた。
そうして戦わせたら、最後に勝つのはやっぱり僕ら。大人だったら「勝ってばかりでつまらない」と思うかもしれないけど、子供ならそんな合理なきご都合主義も許される。
これは、僕が展開するオリジナルのミニフィグ物語と、別の世界からレゴ化してやってきたキャラクターのクロスオーバーってところだ。
年を経るにつれ、悪役も強くなってきた。そういう設定を与えた。組織という概念、階級という概念も、僕は取り入れた。
そして別世界からやってくるキャラクターも増えた。
オーバーウォッチのメカがマーベルのクリーチャーを倒したり。
キャプテン・アメリカがストームトルーパー相手に無双したり。
アイアンマンとバットマンが仲間になったり。
ニンジャゴーのキャラクターがヒドゥンサイドやモンキーキッドのキャラクターと共闘して、マインクラフトのクリーパーを倒そうとして爆発に巻き込まれたり。
版権もののレゴシリーズを一つでも買っておけば、こういうクロスオーバーは簡単にできてしまう。それが楽しくて、大人になっても相変わらず戦わせている。
多分、僕が物語を作ることを楽しいと思うことになったきっかけの一つなんだと思う。僕は誇りたい。
流石に主人公側がピンチに陥ることも増えてきたけど。