(_ _).。o○(日記?)

Twitter(slsweep0775)ではとても書きづらいと思ったことを書いて、さらにそこから流れる思考に任せて自由に書くブログです

木製の王子が見つからない話(後半)

前半に続き。

ツイートやらアマゾンやら写真やら貼り付けてたら思いの外長くなった。スクロール地獄は嫌なので前後半に分けます。

 

今日は古本屋を周って『木製の王子』を見つける旅に出ました。

 

結論から言うと見つからなかった。

何の成果も?と訊かれるとそんなことはなく。

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こうなりました。清涼院流水の『パーフェクトワールド』が6巻までとはいえ108円で買えた。さらに鏡家サーガ例外編の『鏡姉妹の飛ぶ教室』、白河三兎の『角のない〜』は文庫版を持ってますが大幅に改稿したものだったと知ったのでノベルス版を買い、密室本企画として出された西尾維新の『クビツリ』と積木鏡介『芙路魅』(なお未だに『歪んだ創世記』は手に入れられず)、とりあえず買っておくか程度の気持ちで舞城の『阿修羅ガール』、そして『メルカトルかく語りき』です。

 

まず日本最大規模と銘打たれ去年にオープンした志免のTSUTAYA BOOK GARAGEへ行きました。

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この時点で既に『木製の王子』はなくかったのですが、まぁ広いことこの上ない。品数もありました。豊富でした。にもかかわらずなかった…マケプレであれだけの値段がつくだけはある。

ちなみに博多のブックオフで108円で購入した『夏と冬の奏鳴曲』ですが、

運が良かったとしか言いようがありませんな。

 

そこから古本屋を転々としました。

ブックエコ、ブックオフやら手当たり次第に。

講談社文庫における麻耶雄嵩の本は背表紙が黄緑色をしています。なので「ま行」で黄緑色の背表紙があれば、ほぼ麻耶雄嵩で間違いないのですが、黄緑色の背表紙すら見つからない結果となりました。

黄緑色と白色でデザインされた講談社文庫の背表紙を見ると飛びつくほどになった気がする。

 

とりあえず、『隻眼の少女』はどの古本屋に行ってもあります。割と簡単に買えます。

 

あと、博多のブックオフで見た事例ですが、「あ行」に麻耶雄嵩作品があったこともあり、試しに「あ行」も見てみるといいかもしれません、まぁほとんど背表紙に作者名の読み仮名の最初の一文字があるので、間違えることはほとんどないのですが。

 

麻耶雄嵩関連の話は終わりますが、越前魔太郎作品もそこそこあります。ただ、企画の中で入間人間が書いた『ウォーキングのW』が見つからない。『トイボックスのT』と『ペインのP』は見つかるのに。それも探さなければ。

木製の王子が見つからない話(前半)

読書ファンやらビブリオマニア辺りが質問しそうな「どこの出版社の文庫が好き?」という質問には迷わず「講談社文庫」と答えます。自分が目指してるメフィスト賞の作品、その周辺を読み漁ってる影響からか、そんな嗜好になりました。乾くるみの『Jの神話』も、

 

 

Jの神話 (文春文庫)

Jの神話 (文春文庫)

 

 


こんな感じで文春文庫から出てるわけですが、絶版となった講談社文庫をわざわざ買い直すほどです。だから古野まほろの天帝シリーズが講談社文庫から出なかったことが残念でならないくらい。

 

前置きはそんな感じで、

 

 

 

今日、そのポチった分が届きました。f:id:slsweeper:20170628203339j:image

神様ゲームも買ったしで、とりあえず麻耶雄嵩講談社文庫版の分は残る一つ。

 

そう、『木製の王子』です。

 

 

『痾』とかいうたった一文字のタイトル(『蛍』『鴉』と、麻耶作品は一文字タイトルが結構あることは承知の上)に惹かれたのが始まりではあるものの、その続編だと知りました。

 

ところが、その木製の王子も講談社文庫版で出てはいるが絶版状態。

 

木製の王子 (講談社文庫)

木製の王子 (講談社文庫)

 

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高騰してる。ことわっておくと『痾』もそれなりにしたんです。1700円ちょい。プラス送料で。それ以上に高いんです。

それ以降の『あいにくの雨で』とか『美袋のための殺人』とかは送料の方が高いくらいに簡単に買えたというのに。

ちなみにこの2作は集英社文庫で出てます。

 

メルカトルと美袋のための殺人 (集英社文庫)

メルカトルと美袋のための殺人 (集英社文庫)

 

 

 

あいにくの雨で (集英社文庫)

あいにくの雨で (集英社文庫)

 

 


ただ講談社文庫に変なこだわりを持ってしまったがために、絶版となった講談社文庫版で買うに至った。

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結果こうなった。タイトルのちょっと上の数字が刊行順を表してます。さて、『痾』のあとに『あい雨』と『ため殺』が出ておるわけで、件の『木製の王子』はこの次に出ているということになる。講談社文庫で言うところの6作目ということになる。

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ちなみに、『メルカトルかく語りき』のカバーを見てみるとどうだろう、既に『翼ある闇』以外絶版状態。

 

 

で?

 

後半に続きます。

 

 

 

「うちの飼ってるヘミングウェイがさ」
「なんだヘミングウェイって。ライオンの夢でも見るのか」
「そうかもな、それかそのうち鼻歌でも歌うんじゃないか?なにせ飼ってるのはキツツキ(hummingbird)なんだから」

 

深夜のテンションの思いつきで呟こうとしてやめたジョークもどきの会話をこっちに貼ります。

 

ライオンの夢を見るのは鯨漁に失敗した老人です。『老人と海』ですね、私は未読です。ウィキペディアであらすじを見ました。

「ハミングとハミングバードヘミングウェイって似てない????」みたいな謎の思いつきにより生み出されたこの会話ですが、あんまり下手にこういうの書くものでもないですね。

 

ウィキペディアであらすじをネタバレまで全部読むことがよくあります、進撃の巨人とか、あいつが巨人になってあいつを喰い殺すまでネタバレがバッチリ含まれておりました。閲覧の際はご注意を。

 

今さっきの出来事ですが、「くいころす」と打ったところ一番に出てきた変換候補が「喰ひ殺す」でした。なぜ「ひ」なのか。なぜ歴史的仮名遣いなのか。アマゾンの奥地にでも行けば解明されますかね、iPhoneさん。

あと、今までは「あいふぉん」と打てばiPhoneと出てきたのに、ここ最近になって「あいふぉーん」と打たないと変換候補が出てこなくなりました。Appleからの圧力を感じます。「あいふぉんじゃない、あいふぉーんだ。今後お前のiPhoneを水没させたくなければ、絶対に間違えるな」とかそんな圧力を感じます。

深夜になると何かに取り憑かれたように爪を切る。夜に爪を切ると親の死に目に会えなくなると言われたりする。だから高校に入るあたりまでは陽のあるうちに切るようにしていた。

だけどその由来を調べてみると急に馬鹿馬鹿しくなって、今ではもう昼だろうと夜だろうと急に思い立ったように切る。寝る前だとか外から帰ってきた時だとか。風呂上がりだと爪も柔らかく、硬い足の爪も容易に切れる。なのに何故か思い立たないと切らないのでみすみすそのチャンスを逃す。

そうやってみすみす寝るチャンスを逃しました。

備忘録として

夏目漱石は「月が綺麗ですね」と言い、二葉亭四迷は「死んでもいい」と言って愛を表現した。そんなにも美しい恋愛的表現があるのかと思った。しかしこれを現在において相手に使うとなると、相手の方もそれほどの素養を備えていることを前提とする必要がある。文学について何も知らない人間に月が綺麗だと伝えても、文字通りにしか受け取らないし、ましてや死んでもいいなんて言った時には、余計な世話を焼かれるだろう。
人の言葉には何かの魔力があって、絶えず人はその魔力を行使している。それに対して免疫を持っている人間がいるかと思えば、全く耐性を持たない人間がその魔力にやられてしまう場合もある。言葉というものはつくづく不思議なもので、人はその中に込められた力を使ってまた他の人間を動かしている。なのに使っている人間自身が、この込められた力に関して無頓着であったりする。無頓着というのは時に恐ろしいもので、前述した「耐性の無さ」をしばしば露呈させる。攻撃性の高い人間はその隙を突くのがとても上手で、すかさず言葉を刺してくる。出来の悪い鎧と同じだ。装備していても中途半端に鎧と鎧の間に隙間が空く。そこを槍や矢や剣や刀で突かれたら終わりだ。ほぼ死亡するだろう。言葉は武器たり得る存在だ。厄介なのは形を持たないことだ。文字に起こせば形にはなるけど、音に表される言葉ほど力は持っていない。口頭から発される声の言葉こそが最も強い力を持つ。形を持たないので外傷は付けられない。だが、同じ傷でも、外に負う傷よりも中に負う傷の方が深いのはもう誰もが知っていることだ。なぜなら、誰もが一度はそのことを経験しているからだ。この人生の中で、言葉によってつけられた傷が存在しない人間は誰一人としていないし、それがすでに完治しているなんてことはあり得ない。この傷は永遠に残る。誰が癒そうとも、それは治ったことを勝手に錯覚しているだけで、実際は傷なんて消えていない。ただ痛みを感じなくなったに過ぎないだけだ。
言葉がれっきとした武器であることに関しては、誰もが経験から学ぶ愚者である。歴史から学ぶ賢者になることは誰にもできない。誰もが一度は傷ついて学ぶ痛みであり、その経験が今後の人格形成に大きく左右する。言葉によって負った痛みは人それぞれだし、痛みを負わせる側にも様々な種類の人間がいる。ろくに痛みを感じなかったのならば、それは少し注意した方がよくて、少し時間が経てば、その痛みに対して無自覚になる。だから自分が負った痛み以上のものを人に与える場合がある。それは気をつけたほうがいい。
人が言葉を行使して感情を伝えるとき、やっぱり思った通りには伝わらなくて、伝えようとした事によく似た事を受け取って、それを理解する。この誤差が大きいほど、軋轢は発生しやすいわけだ。
愛を伝えようとしても、そう簡単には伝わらない。
月が綺麗だと言っても、愛が伝わるとは限らない。
死んでもいいと言えば、精神的な病気を疑われる。
今の世の中はそういうものだ。誰もが言葉の深層心理を理解しきることができなくなっている。言葉に含まれた僅かな意味を受け取れなくなっている。言葉を受け取るアンテナは、もうかなり簡略化されすぎている。直接的表現でなければ愛は伝わらない。伝わるとしても、ごく僅か。そんな現実を漱石や四迷が目にしたならば、彼らはどんな反応をするだろう。それはそれで楽しみだ。

備忘録として

俗に人間の魂は二十一グラムだと言われている。アメリカの医師ダンカン・マクドゥーガルは、死ぬ際の体重の変化を計測し、その数字を叩き出した。まあ定かではないし、信憑性なんて求めてはいけないほどの都市伝説だし、むしろ俗説の類だ。
だけど、大半の人間はその二十一グラムが減る瞬間に立ち会っていない。そのアメリカの医師だって、計測を試みた六名のうち二名は計測に失敗しているわけで。そもそも二十一グラムが減る瞬間がわからない。そう考えてみると、「魂は二十一グラム」という情報は、一体どの場面において役に立つのだろうかとつくづく考えてしまう。宗教観における魂の重さはこの際考えないとして、この二十一グラムという暫定的かつ不安定な、科学的重量は、どこで意味を成すだろう? 二十一グラムに僅かな意味を見出すとして、それは一体どの場面? 私にはそれがわからない。そういうわけで、科学的な魂の重さは、宗教において意味を成さないのだ。二十一グラムという数字は、科学者や無神論者、無宗教を掲げる人間にのみ適用されるものなのだろう。あくまでも俗説として。
亡骸から抜けたその魂はどこへ行くのか、ということについて、科学は完全に思考停止している。そこでやってきたのが宗教だ。
リインカーネーションと輪廻転生は同じ意味の言葉だ。すべての魂は循環する。するとこの二十一グラムの魂は、死ぬ間際に体から抜けだして、また新たに生まれようとしている体の中に入り込むことになる。そうだとしても、現在地球上で増え続けている人間の魂についてはどう説明するのだろう。胎児に宿る魂が人間の亡骸から出てきたものであるならば、人口が増えることはあり得ないはずなのだ。そこにこそ、輪廻転生の穴があるわけだと思う。この穴を埋めるのであれば、前世を同じくする人間がこの世にいないといけないはずで、しかしそうすると魂は二十一グラムではなくなってしまう。プラナリアみたいに、半分にしてもその後完全に回復することが可能なら、複製こそ可能だが、そんなことを喜ぶ人間は果たしているのかどうかも甚だ疑問である。
結局は前世の存在はおろか、魂という存在そのものが疑われているのが現実であって、これは「人間に心は存在するか」という問いに対し、「感情を司る分野がの脳の中に存在する」という答えが返ってくるようなものだ。心の存在、前世の存在、魂の存在。これら全ての存在は、現状を言えば唯一宗教だけが支えている。
宗教ほど強固な観念もない。
宗教ほど強固な概念もない。
あるはずのないものが、現在でも実際にあると信じられているのは、その考え方が宗教に基づいているからで、宗教そのものが世界から消滅しない限り、この考え方は揺るがない。そもそも宗教自体が消滅し得ないものであるので、この考え方も永遠に支持され続けるのだろう。