(_ _).。o○(日記?)

Twitter(slsweep0775)ではとても書きづらいと思ったことを書いて、さらにそこから流れる思考に任せて自由に書くブログです

 以前よりも記事のビュー数が増えているような気がしている。多分、インストバンド紹介記事のアレが影響しているのかもしれない。

 体調を崩しがちで病弱な人間がするべきなのは寝ることですが、基本的に健康でない人間は寝ることができません。薬でも飲まなければどうにもならない。

 iOSのアプデにより全角スペースを打てるようになった今、スマホで文章を書くことにもとうとう抵抗がなくなってきました。布団の中で横になりながら、ジップロックに入れて浴槽の中で、台所で料理の出来上がりを待つ合間に、ふと頭に浮かんだフレーズがやってきて、メモ帳は短文ばかりになってしまった。

 数々生み出されてきたこれらは、一体、あの例の数々の手記の中においてどのように立ち現れどのように立ち振る舞うのか。手記を書いている人にしかわかりません。

 

 人の死は身近にあるようでいてそうでもなかったりします。葬式で見るのは"死んだ後"で、死ぬという"瞬間"にはなかなか立ち会えない。死に際の言葉を聞くことは大抵できない。人が死んで、人が人でなくなる、或いは生き物が生き物であることをやめる、その瞬間自体は普遍的です。毎日人は死ぬわけだから。

 だけど不謹謹慎な言い方をすれば、瞬間を見るのはかなりレアなケースだと思っている。人が死ぬ瞬間なんて、一般人はなかなか見ることができないから。病院ならばまだしも、ましてや街中でなんて。

 そういう、公衆の面前で一人の人間が死ぬというような、極めて稀なシチュエーションに出くわしたその他の人間は、その瞬間をカメラに収めようとする。その行動は一見不可解でありつつも、珍しいものを保存しておきたいとか、みんなに知らせたいとか、そういう心理が働くから、自分自身の欲に対しては合理的な行動でしかなかったり。だからカメラに収めようとする彼らの気持ちが少しわかってしまう。撮った後どうするのかは……別としても。一定の倫理観が備わっているかを判定するリトマス紙を使って、この行為を分析できるかと言うと、おそらく無理だ。

 極端な話、他人にとって人の死はエンターテイメントでしかない。民衆の娯楽が断頭台だったり、磔だったりしたように。今は飛び降りや首吊りや焼身に変わって、それを行う人間も自分自身になっている。死ぬ側の都合がどう変わっても、平凡な日常において人が死ぬ瞬間が滅多に見ることのできない現象であることに変わりはない。

 見たくない人間以外は、見る。それだけ。

 

 というような文章が、今後の誰かの手記の中に出てくるかもしれません。倫理を含まない、好き勝手に書かれたものが大量にあるため、どこでこれが出てくるかはわかりませんが……何しろ、味のしなくなったガムを白紙に喩える人がいたり、人はみんな特有のQRコードを持っているだとか、そういう話ばかりをする人たちがたくさんいるわけです。そういう人が手記を書いています。日本語が上手く通じるかどうか。

 ファーゴという海外ドラマが面白いです。あとMR.ROBOTも最終シーズンが配信されたので見ました。ミッドサマー、とてもよかったです。

 今年の目標は"生きること"にしました。

 2月も下旬ですが、今年もよろしくお願いします。