夜道で帰途についてるとき、曲がり角をいつも間違える。
本来曲がるべき角にある目印となるパーキングエリアの看板は、もう見えているのに、間違えてその手前の角を曲がってしまう。
ある程度歩いてようやく気づくことが多くて、その時はいつも誰かが後襟を引っ張ってくるのだけど後には誰もいない。
振り返ると誰もおらず、道路には一人ど真ん中に立っている僕だけがいる。
大通りに合流する小さな道には街灯がある。
夜道で帰途についてるとき、曲がり角をいつも間違える。
本来曲がるべき角にある目印となるパーキングエリアの看板は、もう見えているのに、間違えてその手前の角を曲がってしまう。
ある程度歩いてようやく気づくことが多くて、その時はいつも誰かが後襟を引っ張ってくるのだけど後には誰もいない。
振り返ると誰もおらず、道路には一人ど真ん中に立っている僕だけがいる。
大通りに合流する小さな道には街灯がある。
これは、薬を飲んで数分ほど経ってから書いています。
私が服用する睡眠薬には副作用があり、なんとも形容し難いフワフワした、柔軟な考えを時々してしまうのです
Apple Musicを使っていた時のこと。
レコメンドページを見ました。自分が日頃どういう曲を聴いているかによって、サービス側がこの曲はどう?とか最近よく聴いてるねみたいに勧めてプレイリストを作ってくれるのです。
最近そのUI画面が変わったらしく、ジャケット写真が同時に表示されるようになりました。
こういう感じ。
通常ならばなんの取り止めもないようなデザインですね
睡眠薬を飲んでフワフワしていると、この画面に錯視が起きます
画面は平面なのに各要素が立体的に飛び出して見えてしまうのです
生じようのない影が要素のあちこちに出てきて
まるで一つの建物のように。
一番下に収納されたプレーヤーが道となり、再生の履歴として出てくる大きなジャケット表示画面が奥行きのあるショーウィンドウに見えてくる
問題はいちばん上です。画面全体が建物のように立体的に見えてしまう幻覚を覚え、一つの窓のように見えてしまう
大きな表紙と大きなジャケット写真は看板として機能し、間に挟まれた二つの小さなジャケット写真。そのジャケット写真に、どうも奥行きを感じてしまうのです
表示されているジャケット写真のどれもに奥行きを感じ取ってしまい、まるでその小さな枠をくぐれば、壮大な世界が広がってるんじゃないかってくらいに。この前4DXインセプションを見た余韻に浸るべく、インセプションのサウンドトラックの画面に入り込むのもいいかもしれない。入り込んだ先は夢の中のロサンゼルスだけが広がります。
たとえばWONKのEYESのジャケット写真。New Musicプレイリスト入りを果たしそこにジャケット写真として出てきたわけですが、私はそこに奥行きを見出してしまい、月、月の明かりにすら妙な立体感を覚えてしまう、
FriendsMixは、Apple Music上のフォローフォロワーが聴いている音楽をまとめたリスト。大きな二つの看板に挟まれた藤井風のジャケット写真。その下はLucky Kilimanjaroのジャケット写真がある。しかし妙な立体感のフワフワのせいで、藤井風が自身と同じくらい大きな段ボール箱(正しくはLicky Kilimanjaro「エモめの夏」のジャケット写真)を持っているような立体感を覚えてしまった。
Favorite Mixは、特に自分が好んで聴いている曲をランダムでまとめてくれるリスト。若干のタイムラグがある
マドンナとポールヤングが、さらには森高千里までがこちらを見つめている。誰でもない僕を。願わくば、上にある坂本龍一「async」のジャケット写真に行きたいのだが、こうも二人のジャケ写に見られているとなかなか難しい。僕は諦めて、森高千里の隣にあるElectric Lights Orchestraのジャケットに入ることにした。
Get Up! MIXは、これまで聴いてきた曲のジャンルから、自分が好きそうなものを推測して気分が上がる曲をまとめてくれる嬉しいリスト。
サイダーガールの女の子がこちらを見つめている。広告みたいに。間に挟まれた絵になったMIYAVIもこちらを向いている。
その下に、真っ黒な四角い空間があり、円が描かれている。THE ORAL CIGARETTES「SUCK MY WORLD」のジャケット写真だ。ワームホールのようにこちらを吸い込んできそうな勢いを見る。椎名林檎の頭にリンゴがぶつかっているCGを、熊川みゆが青空と浜辺を背に眺めている。その後ろで(K)NOW_NAMEと凛として時雨のジャケット写真がショーウィンドウに飾られて、反対側には建物に入るための「▶️」と書かれたドアが待っている。
画面のいろんな構成が立体的に見えてくるのが僕の副作用です
どうにかしなきゃね
和服を二着、和風の上着を一着買ったら、リテンション広告なんとなく、そろそろ無地のTシャツが欲しいと思うようになったから。ユニクロにて通販限定サイズで売られているクルーネックTシャツを買い、肌着も買い、とりあえずファッションを変えてみようと考え始めた頃。
まぁそれが今日なのだが、岩井俊二の「スワロウテイル」を見ることにした。円が最も強かった時代の円都の円盗を描く多言語ムービー。
芋虫はサナギとなり蝶として飛び、そして死ぬのだ
多分、今後書く予定にしてあった街もこんな感じになるんだろうと思いながら、画質の古くなった本編をずっと見ていると、変な切なさが込み上げてくるのがわかった。単純な時代に対するノスタルジーと違って、その世界観に惹かれた。
映画は1996年。小説は1996年7月5日と、私の1歳の誕生日とともに出版された。僕は幼少の頃、名曲としてこの曲を聴く。
記憶に残ったまま時々出会い、そして振り返る。
そこにあったのは、moumoonのカバーバージョン。中学入ってすぐあたりのことだった。
FMラジオを聴き始めた頃にmoumoonを知って好きになってたあたりでこのタイミング。僕は夏の明るい夕暮れの帰り道を歩きながら思い出す。微かに残っていた頃の曲の断片を、思い出しながら、セミの音を遠くで聴いている。そんな日々。
インターネットの普及により簡単に曲を聴けるようになったあたりの変なタイミングで動画文化やFlashなどのインターネットに触れたせいで、長らく音楽方面の感覚や知識の更新が停滞する。それが中学から高校あたり。深夜アニメに熱中し、友人と感想を語り合うためだけに見ていたようなものから、純粋な好奇心だけで見たものまで。その最中、音楽の趣味はロック方面へ傾く。
そういう、紆余曲折あり、大学卒業あたりから再び90年代のノスタルジーに向き合う頃がやってきたあたりで、ここにきて、とうとう、ようやく、やっと、原曲であるYEN TOWN BANDのバージョンを思い出したように再生するのだった。
一歳の頃の映画だ。テレビで見かけたどの人も若く、美しく。街の雰囲気も素晴らしく。
死で始まり死で終わるこの映画、全編にわたり流れるYTBの曲と、シナトラのマイウェイ。良かった。Apple Musicにもあった。
彼らの世界を、僕はまだ知らない。
Kindle unlimitedをなんとな〜くで契約してて、アニメディアとかラノベとかを読むんですけど、コンビニに寄るとどうしてもなんか雑誌が欲しくなって衝動買いすることをやめられなくなる。
特に読みたいという強い気持ちがあるわけでもなく、付録が欲しいとか好きな人が書いている記事があるとかそういうのでもなく、ただなんとなく文字がたくさん載ってる大きな紙の本を読みたいと思うようになって、コンビニでの会計する額が一桁増えるようになっていった。
買ったから読もうとなって、なんとなくページをめくるけど興味を惹かれない記事もそれなりに多く、それも当たり前で、そこまで魅力を持つ前に手に入れたからに他ならないわけだけど、手元にあるとなんだか見てしまう。POPEYEのファッションを真似するでもなく、ニュートンで知識欲を満たすでもなく、アウトドア雑誌でキャンプがしたくなるわけでもないし、小悪魔agehaを買って夜の街に繰り出す気になるでもなく、週刊誌を買ってゴシップネタを楽しむでもなく。雑誌が売り出している本来の趣旨というか目的というか、そういう対象に定められた基準の遥か外にいるから、なんとなく細かい文字を隅々まで読んで満足してしまう日々が続きます。
リモートにも飽きてきた。初めてウーバーイーツと出前館を利用してみたけど、サービスの質はそんなに変わらなかった。思ったより。意外にも。もっとこう差が出るもんなのかと思っていただけに拍子抜けした気分だった。
最近は暑いというよりも雨のせいで湿度がえげつないくらいに高く、温度の問題より湿度の方を問題視している私としては、対策は冷房をつけることくらいしかない。温度を上げれば快適だし。
なんとなく引っ越してからモノが増えた。プラモ、フィギュア、レゴ、書籍、そして和服。作務衣を買い、羽織まで買ってしまった。安いモノだけど動きやすいし快適だしで、そのまま深夜はコンビニに出かけてコーヒーを買っている。
物理的容量が日に日に圧迫されてもなお、僕は電子の雑誌を本腰入れて読むになれず、未だ紙の雑誌を巡ってはすぐ放る。そんな状況で休止していたNetflixの契約も再開したことで、圧倒的な時間の足りなさに気付く。
YouTubeで包丁研いでる動画や錆び付いた金属製品を新品同様に仕上げるレストア動画とか、おめがシスターズやオモコロチャンネル、古い映像とvaporwaveに浸っていると、どういうわけか時間がそれだけでなくなる。
インプットどころかアウトプットすら疎かになり、先月は研究所の手記を更新しないまま1000PVを達成していた。
図書館で精神と自殺についての本を眠りながら漁っていると、あっという間に時間が経つ。静かな空間で、ヘッドホンからvaporwaveを流し、手記のメモの参考になればと複数冊思い切って借りてるけどまだカバンに入ったまま返却期限一週間前になろうとしている。ライトアップされた福岡タワーを眺めながら、元職場の閑散としたロビーを潜り抜けて、僕はバスに乗って帰る時にいつも思う。「夏は嫌いだ」。
誕生月があるってのに。25歳になって、いろんな人からプレゼントをもらい、どうにか生きている状況だけど、周りの環境が変わっていく中で自分が変わっているのかどうかもわからないまま日々が過ぎていく。本屋で働いていないので新刊情報に疎くなり、Amazonで本を買うようになる。表紙買いも少なくなり、それでも本棚に限界が訪れている。2年後はもっとひどいだろう。
保険証はコロコロ変わり、その度に区役所に足を運ぶ。何か意図があってこんな忙しさになっているのか、それとも台所に未だにガスコンロを置いていないのが原因なのか、鹿児島の母方の実家から送られてきた大量の新玉ねぎのせいなのか、職場での人間関係(画面越し)の不特定多数との相手に疲れているだけなのか?
今はなんとなく県内のビジネスホテルに泊まってみようなどと荒唐無稽なことを考え始めている。家賃が安くなった家に引っ越したからと財布の紐が緩んでいる事実は否めない。だがどうにも息苦しさは消えない。映画館で映画を見ることができていないことが原因なのかはわからないが、はたしてこのシェルター生活にいつまで耐えられるか。
孤独をさらに楽しむいいチャンスと取るか。
お金とともに生きていく最良の道を歩むか。
どっちも欲しい。
そして時間が欲しい。
銅像が引き倒される動画があちこちで流れていて、今後、実話をもとにした映画とかに使われるんだろうなと思っています。或いは「2020年はこんな時代だった」といった感じでフィクションにリアリティを与えるために使われるか、はたまた近未来SF映画とかの冒頭部分で人類の歴史の一端として一瞬だけ映像が流されるか
深夜に差し掛かる辺りで流された、ワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んでいったニュース速報は今でも鮮明に覚えている。父親の実家のリビングで家族が棒立ちになってテレビを見つめており、まだ幼い私はその映像を見てブロックでタワーを作り、そこに飛行機のおもちゃを突っ込んだ。
対岸の火事であるからこそ、不安にはなれど不安を感じることはできなかった。不安になったのだって、テレビを見ていた家族の様子がいつもと違っていたからで、むしろ大きな建物に飛行機が突っ込んだあの映像を見た時、ワクワクの気持ちを隠せなかったと思う。ブロックで再現するくらいだ
2001年にそういうゴタゴタがあって、2020年に別のゴタゴタが起きているのを対岸から見て、私は当事者でないのをいいことに、当事者になり得ない立場にいるが故に、いまだにその先の未来のフィクションに想いを馳せてしまう。近いのはトムクランシーのDIVISIONシリーズ。疫病で崩壊したアメリカの街を、普段は一般人として暮らしているエージェントが集まって敵に立ち向かう
……そうまでは行かなくても、映画やドラマなどでの2020年の扱いは大きく変わるかも。
例のゴタゴタから枝分かれして伸びるも剪定されてしまった「起こり得なかった」枝。それをフィクションとして再加工すれば、ネオナチ、KKKの再来、キング牧師の再来。混乱に乗じて行われる陰謀。経済制裁。国がメチャクチャならば、人もメチャクチャになる。2020年は序章に過ぎず、2021年の東京オリンピックで爆発騒ぎが起き、東京も荒廃。首都が移り日本が東西で分裂。温暖化により溶け出した氷から新たなウイルス・病原体の流出、試作段階の格闘スーツが急ピッチで製造され、少数精鋭で行われる戦争は作戦として着々と。メキシコの壁が壊される日、不法入国者が保菌状態で大量死。パンデミック、バイオハザード、滅亡物語があちこちで作られるかもとワクワクしている。刑事ドラマやミステリ作品では人種の問題をより色濃く扱わざるを得なくなるだろうし。あのゴタゴタの巨大樹から枝分かれして派生したフィクションがたくさんある。そのまま枯らすか活かして物語にするか。そういう選択を迫られてると言い切りたい。
なんにせよ、ゴタゴタがフィクションや創作に影響を与えるのはまずもって避けられないだろう
ゴタゴタを経て作られたフィクションには影響と、さらに文脈が混ざる。キャスティングにも意味が込められ、キャストやスタッフ、ロケ地などにも。物語の外側で物語が始まり、もはや作品は本編だけではないのだと知る。キャストそれぞれの要素……つまり人種、ジェンダー、政治的スタンス。これらを本編を引き立たせるためのスパイスとして散りばめ、プロデューサーによってあれこれとハッシュタグをつけられ、ようやく客前に出された作品。純粋に映画を楽しもうとしてもスパイスやタグによって解釈が枝分かれし、気がつけば一本道の楽しみ方を誰もしていない。もう本編のみならずキャスティングまでもが一つの本編と化しているから一本道の解釈が用意されなくなったと言える
作品の背景に込められた意味は、これまで半ば都市伝説的に語られてきたけれど、もうなんだかそういう時代でもなくなってきたみたいだ。いいところはいいと、悪いところは悪いと。これまでよりもグレーの範囲は狭くなった
これからは偉人たちを悪役に据えたフィクションが流行りそう。対岸の彼らはもうすでにやっているかも。銅像に落書きをしたり壊したり倒したりを既にやっているわけだから、ノートに「リンカーンの倒し方」とか描いて悦に浸る子もいるんじゃなかろうか。自分だったらこうやって壊すのにと、彼らの妄想は偉人に反旗を翻すことでたくさんだ。
彼らはあくまでも「間違い」が公衆の面前に堂々と残っていることに憤っているので、憎悪は銅像では消えず、象られた偉人にも向く。リンカーンの桜の木の逸話も、作られた話として簡単に修正を信じてくれることになるでしょう。デマを塗りつぶせるのはデマにしかできない
偉人について書かれた伝記のデメリットは、扱った偉人の悪行が目立ちにくいところなんですよね、こういう偉業を達成したが、それ自体が実は数々の悪行のもとに成り立っていただとか、善行を成した裏でそれよりももっと多く、もっと酷い悪行が行われていただとか。そういうものが伝記には書かれることはあれどそれほど悪くは書かれない上、伝記という物語の構成上、いい終わり方を迫られるのでそれほど重要視されない事が多い気がする。「こういうことをやってきたが、結果的にはいいことをした」といった感じで、悪行やそれによる犠牲や被害についての言及が、いい人間であることを伝えるために省略されることもある。そういう形で語られた彼ら偉人のいい部分しか伝わらず、悪い部分が意図的に隠されるから伝わらず、偉人を表面的にだけ知っている人々は、彼ら偉人を時に神聖視する。
そういう神聖視すらしていた人々にしてみれば、例のゴタゴタは冒涜に等しい。ここでまたゴタゴタが起きている。「悪いもの」や「間違ったもの」が、純粋無垢なる公共の場所に堂々と鎮座しているのが彼らにとって最も許せない状況だから。「真実」を知って、偉人たちの、伝記の「欺瞞」に気付いた彼らにとって、なんでもなかったようなものが不純物に見えてしまうから。
世界が善行で埋め尽くされ、真実のみを大事とする人間だけが生きるようになる時代を目指している彼らの修正作業は終わらない。
彼らの戦いはこれからだ。
ーー応援ありがとうございました!
ーー次回作にご期待ください!
なんて。
事実に基づいた映画作品を見る時、ほとんどの確率でパンフレットを買ってしまう。基になった出来事についてざっくりとだが簡潔に書かれていたりするからだ。「これはフィクションだけに収まらない。現在進行形で起きていることだ」といった感じの解説とともに、なぜこんなことが起きたのかだとか、そんなコラムや解説を読んで、映画の小ネタを拾うわけです
文字が多ければ得。キャプションが多くても得。
どちらにせよパンフレットはいいものです
時折amazonや電気屋さんでPCを物色しています。どうやら価格ドットコムで買うと大幅に安くなるだとかポイント還元の話だとかそんな感じのサービスに頭をやられ、うちにある大学時代から6年位使っているwin8.1のノートパソコンのヒンジがぶっ壊れてしまったので、そろそろ買い替えの時期かなと考える一方で、サポートが終了したwindowsXPもしくは98もしくは95の古いノートパソコンを一台持っておきたい気持ちが沸々と湧いてくるので、メルカリやヤフオクやジャンクのお店で物色しています。私はそういう古いタイプのものを求めている理由として、互換性のなくなったゲームを遊びたいというそれだけのものです。だいぶ前に睡眠薬の勢いに任せて憧憬にも似た長文を書きましたが、その中でガッツリ遊んだフリーゲーム。RPGツクールも通用しなくなり、win10は愚かwin8.1ですらロクに起動しないソフトやフリーゲームは私を呼ぶ声がするんです。あの頃の憧憬とともに帰ってきたのは、体験版から製品版にグレードアップしたセガラリーチャンピオンシップ、ニード・フォー・スピードポルシェアンリシュド、ニード・フォー・スピードⅢホットパースート!レースゲームがごとごとく遊べない。win10ではことごとく。互換性モードも無力に終わり、残るはハードそのものを用意するしか無い。遊ばれなくなったダイソーの脱出ゲームや恋愛ゲーム、タワー略ゲームにタンクゲーム、そして一番好きだったギャラリオン、ギャラリオン2!これらはハッキリ言って、全く稼働すらしない。xpでもなければ起動など全くしない。あの時に浸った憧憬の残滓が、フワフワと気体となって私の頭に入り込んでくるし、私の頭の記憶の中でずっと漂い続けている。あのローポリゴンの壁や車、操作のつかれるキー操作、私はそういうものを今でも瞬間的に思い出す。私がゲームでパソコンを遊びまくって今がある。インターネットにつないでいなかった自宅でやることと言ったら、ひたすらPC専門誌の付録につくCD-ROMに収録されたフリーゲームを遊ぶだけだった。MUGENもそうだしLittle Fighter2だってそう。そういうのをしつつ、音楽のエンコードも情報は手打ちで、私はそのころようやく小説を紙に書くを事を覚え始めた。
私は今、windowsXPもしくは、windows98もしくは、windows95。これらを求めている。
憧憬の中に天高く登っていった類のもののいた。
とある落語とプラネタリウムが収録されたCD-ROMだ。
主人公のはくちょう座が、雨雲によって街からは見えなくなったのをいいことに他の星座と自由に交流したり生活したりというそんな落語だった。
この噺家だった。
https://rakugo-kyokai.jp/variety-entertainer/member_detail.php?uid=79
ひとつはこれ。この落語と一緒に、1月から12月に見ることができる星座をプラネタリウム画面で映し出される解説動画を見て、私は星座を知り、空を見上げるようになった。
もう一つは富士通体験版CD-ROMに収録されていた、当時としては珍しいCGポリゴンのゲームのデモ。新婚夫婦の妻が原因不明の大病を患ったため、何らかの技術を使い妻の体の中に入って病気を治すというもの。妻の体の中では更に小さな生物が集落のようなものを作って暮らしており、何故か彼らとコミュニケーションを図るうち、何故かその集落の存続と妻の容態というアンバランスな二択を迫られるといったゲーム。
そのCD-ROMには、オラシオン社の「ピーターと狼」、同じくオラシオン社のくるみ割り人形、スヌーピーと英語を学ぶ感じのソフト、後はなんだったか忘れた。
CD-ROMの盤面だけはその曲ちゃんと覚えていいて、当時富士通のマスコットキャラクターだった「タッチおじさん」がメガホン持ってるようなイラストがプリントされた「富士通体験版CD-ROM」と書かれたCD-ROM。
誰か知りませんか。
私はバージョンに見捨てられ、未来に見捨てられた彼らのゲームを、同じく時代に見捨てられサポートまで切られたwindowsたちと、少しばかりのタイムスリップでもしてやりたい気分で、彼らと遊びたい。ひたすらに。
以上が、私が過去のジャンク品にも満たないようなOSで動いているパソコンを求めている現状の動機である。
だれかいたらください。
windows XP,windows 95, windows 98。これでしっかり動くのであればどうなっててもいいです。できればノートがいいかも。とりあえずジャンク品を売ってるお店を見て回る作業はこれからも続くだろう。
この前RADWIMPSがとうとうサブスク解禁に踏み切ったのが嬉しくて、ずっと聴いてる
はてなはいい。Twitter、マストドンと違いその場で曲をプレビューさせて視聴ができる……Twitterでもできるらしいって?そうなの?…そう…まぁいいや
解禁とはいえ全部じゃない。味噌汁'sは未だにだし、アルバムも楽曲も。まだ聴けないものがある。
RADのサブスクは、サブスク用にこしらえたらしいベスト盤と称したアルバム二枚。「RADWIMPSのはじまりはじまりのまとめ」
「青とメメメと君と」
だけ。追加でシングルをいくつか先行で配信していた。そこに突然解禁されたアルバムシングル全部…とは言わないが、サブスクでまともに聴けるくらいにはなったわけだ。
本人たちの意向によるものなのかという気持ちが常に強くあって、彼らはCDとライブで聴いてこそみたいな気持ちはまぁわかるけど……
サブスクを拒否する…というかサブスク解禁に難色を示すアーティストたちの心境が少し気になる。私自身は楽曲を完全に享受する感じで音楽と接しているわけで。一顧客でしかない。報酬は確かに支払われるのに、そのリターンがあまりにも少ないみたいな話は、それはそれで重大な問題だ。ただそういうのを抜きにしても、サブスクを解禁しないってのは、作り手として音楽を発表したことのない私にとって、わりと難解だ。よくわからない。
そこまで重要視していないのかもしれないし、配信だと手元に残るのはCDじゃなくデータだから現物を買ってほしいとか。確かに歌詞カードは重要だ。PDFでもらうのも悪くはない。だが紙をどう駆使して巧妙な歌詞カードになっているかってのはわかり用がない。
歌詞カードも作品だ。
装丁も作品。
CDのデザインだって作品。
配信系のサービスにおける致命的な欠点がある、CDジャケットは正面だけで、裏面を見ることができないことだ。ケースを開けてCDを取り出した時に現れるホルダー下のイラスト或いは写真。この作品を楽しめない。そしてそれらの雰囲気に飲み込まれて、歌詞カードを手に取ることができない。重要な一部だ。まずその装丁に掴まれる。歌詞カードを侮ってはいけない。歌詞を読むために手繰る頁そのものが世界観の一部であり、重要なファクターですらある。歌詞だけが作品だと人は言うが違う。曲の展開とともに流れてくる電子的な歌詞サービスは確かに便利だしかし。装丁、レイアウト、字体、写真、イラスト、CG。これらの要素が全て全力で組み込まれており、曲に合うように合理的に組み立てられており、全体の雰囲気に合った最高品質の装丁を組み上げて、歌詞は着飾り、己の言葉とする。そうして配置されて、ようやく歌詞カードは完成される。書かれた歌詞が共鳴し、様々な効果を相互に起こし、メインの曲たちの持つ力を最大限に引き出し、最高火力で音が鳴る。
CDデザインだってそうさ。穴の空いた円にいかにしてその雰囲気を乗せていくか。そしてそのホルダー下の雰囲気とどうマッチするのか。常にデザインの萌芽はそこにあり、そこから取れるデザイン、雰囲気、それらのアイデアだけでCDはできてる。
歌詞カードはバフであり、CDケースもバフだ。CDそのものもバフであり、その中にある小さな音と言葉のデータに全てのバフがかけられる。
そうして再生された音楽は神のような作品となり、CDがある限り。バフは永遠に続くわけだ。
…なんの話だったっけ?
サブスクの話。なぜサブスク解禁に踏み切れないアーティストがいるのか、その当人たちの、サブスクリプションサービスに対する思いを、私は知りたい。
そう言う話だったと思う。
なんでこんなことに?
「とともに流れてくるそれらの世界観が頭の中に構築されて、ようやくCDを聴くって時に」
……覚えのない文章が一番下にあった